もうダマされないための「科学」講義
2011年9月29日(木曜日)
もうダマされないための「科学」講義
公開: 2011年10月8日21時25分頃
読み終わったので。
- もうダマされないための「科学」講義 (www.amazon.co.jp)
章ごとに著者が違って主張もまちまちだったりします。
1章は菊池誠さんの過去の講演をまとめたもので、どこかで見たような内容 (Youtubeで講演のビデオを見たのかも)。
2章では「科学とは何か」を、主張の内容ではなく主張者の態度から判断しようと試みていて、この定義が興味深いと思いました。
以下の所与の制約条件の中で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産するような集団的知的営み
(a) その探求の目的に由来する制約
(b) その研究対象について現在利用可能な研究手法に由来する制約
以上、p97 より
以前読んだ「科学的とはどういう意味か」では再現性があることを要件としていましたが、その定義では疫学のようなものを含むのか含まないのか判然としないという問題がありました。こちらの定義のほうがスッキリしていると思います。
3章は報道のあり方の話ですが、印象に残ったのはこの話。
幸いなことに、今では役所や企業は、記者クラブの記者達に流す広報文と同じものをウェブサイトに出している。口頭で説明する内容もたいして変わりません。そこから読み取れる情報量はかなり多い。
以上、p148 より
これは全くその通りで、それなりの規模の企業であれば、サイト上にきちんとプレスリリースを出しています。震災直後に流れた無数の話の中にも、東京電力のプレスリリースを読むだけで虚偽が判断できるものがかなりありました。企業が自ら発信している一次情報を直接見られるわけですから、これを参考にしない手はないと思います。
逆に、企業や公共団体には、このようなウェブ上での情報発信のあり方が問われることになります。
それから、4章はトランスサイエンスの話。トランスサイエンスとは、「科学に問うことはできるが、科学だけで答えを出せない問題」のことです。印象に残ったのはこのくだり。
たとえば、リスクにさらされているのが自分たちだけで、リスクの裏返しである便益は自分たちにはないと認められる場合には、そうでない場合よりもリスクは大きく捉えられる傾向があります。これは社会におけるリスクと便益の分配の「公平性」という正義の問題であり、単なる個人的・主観的な「バイアス」などではありません。
リスクにさらされるのが自発的な意思に基づくのか、そうでないのかも、リスクの捉え方に違いをもたらします。非自発的・強制的である方が、リスクは大きく捉えられる。これは「自己決定権」の問題であり、やはり社会正義に属する事柄です。
(~中略~)
3・11以降繰り返されている「福島第一原発事故による放射線リスクは、レントゲンやCTスキャン、放射線治療による被曝のリスクより小さい」といったリスク比較はその典型例です。
以上、p189 より
こういう安易なリスク比較をする論者は多いように思いますね。しかも、主張を受け入れられないと、「騒ぐやつはヒステリーだ」というような論調で反論を切って捨ててしまったりもします。自身の主張が「科学的に絶対に正しい」と思ってしまうと、そこで思考が止まってしまうのでしょう。「なぜこの主張が受け入れられないのか」という理由が理解できずに、「ヒステリー」などのレッテルで相手をおとしめて整合化しようとしてしまうのだと思います。
Twitterなどを見ていると、きちんとした科学者の方は、安易に「科学的に正しい」という主張をしたりはしないように見えます。科学の限界を知っていて、科学だけでは答えを出せない領域があることが分かっているからでしょう。
付録は、放射性物質に関するデマのまとめ。Twitterで流れていた話が中心で、ほとんどが既知の話です。URLがいっぱい出ていますが、紙媒体でURLを大量に掲げられても、見に行く気が起こらないという……。
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