2011年6月10日(金曜日)
何が夢で何が現実なのか
公開: 2011年6月19日12時10分頃
村上春樹がカタルーニャ国際賞を受賞した際のスピーチが話題に。
- 村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上) (mainichi.jp)
- 村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下) (mainichi.jp)
私が気になったのは、後半のこの部分。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
(~中略~)
我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
この話、「原子力は現実」ということを前提にしているようです。少なくとも、原子力発電を推進する人々はそう主張しているのだと。それはそれで間違いではないと思います。
ただ、私は原子力こそが「夢」だったのではないかと思っています。「原子力を平和利用する」「核分裂連鎖反応を安全に制御する」という思想自体がかつては「夢」だったのでしょうし、核燃料サイクルの中心となるはずの高速増殖炉、高レベル放射性廃棄物の最終処分といった技術は、今でも「夢の技術」だと言って良いでしょう。
原子力を推進してきた人達は、その「夢」を半世紀以上も追い続けてきたわけですが、いまだに実現できていません。日本で実現できていないだけではなく、世界的に見ても実現できた例がありません。そして、その夢を粉々に打ち砕くような大きな事故も起こってしまいました。
にもかかわらず、まだ原子力の推進を諦めていない人達がいる。そういう見方をすると、「夢を見ることを恐れてはなりません」という言葉は、また違った意味に見えてきます。
さらに思ったのは、廃棄物の最終処分の実績が全くない、つまり最後までワークフローが回ったことが一度たりともないというのに、それが現実的だと思われていることの凄さです。この背景には非常に強力な「スピン」が存在するのではないかと感じます。
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